合唱団のメンバーだった母親からD君の相談を受けた。「この1年以上息子はひきこもりで、自分の部屋に閉じこもったきりトイレ以外は部屋を出ません。私と顔を合わせるとコソコソ逃げるように部屋に入ってしまいます」とのこと。「一度私のところでゆっくり話しましょう」と母親に返事、数日して2人で一緒に姿を見せた。(よく家から連れ出すことができたと私は内心驚いた)D君は座っていても落ち着かず貧乏揺すりを盛んに行っていた。レッスン初日は立ったまま足元を見つめ、延々足踏みをしているだけ。声をかけるとおどおどしながら私をじっと見つめ、足踏みを続行。
時折左右をチラッと見るような警戒心のある目くばせをする。まるで何かに追われているようで、その際も足踏みは止めない。
何もできない時はCD鑑賞。本人の状態に構わずその音楽の訳知りと中身、聴きどころをよく説明し、それからCDをかける。それだけで40分の予定時間は過ぎ、次のレッスン生が来ている。親もそれを見ながらも私を信頼し、本当によく我慢してくれたと思う。このような状態が半年も続いた頃、D君の態度に変化の兆しが表れた。何となく感じたその変化に「今日からちょっと声を出してみようか」と言うと、ムクッと立ちあがってピアノのそばに移動。「ヘソの所を引っ込めながらホーと息を出してみよう」という私の言葉から始まった発声の筋肉トレーニング、これに対してD君は弱々しいながら「フーッ」と息を出したのである。しだいにこちらの声楽レッスンにものってくるようになった。2年近く経ち、声を出す上で日本語に抵抗があったD君には英語の暗記なども指導していた。そんな経過が良好に向かっている頃、合唱団に海外演奏の話が舞い込んできた。「D君、海外に行ってみないか」と話したところ「行ってみたい」と言い、本人も英語で話せるようになることに意欲的。もともと英語の論文を読むのは当たり前の大学院生だったD君、さらに英会話をプラスすることは別に難しいことではなかったようだ。英会話はまず暗記を中心に行ったのだが、実はこれが更に良くなる上でのスピードを上げたと感じられる。彼は海外ではかなり積極的だった。私の教えた英会話の暗記を使って、バスの中などで英語で場所を聞き、言葉の通じた成果を私に報告してくれる。彼自身、心の底から喜んでいる様にみえた。
その後のD君だが、再び大学院に戻って超伝導の研究に励み、大学教授の助手も勤めた。現在は外資系企業に就職し、技術営業として多望な日々を送っている。
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